昭和39年12月28日 朝の御理解



 目の詰まった信心をさせて頂かなきゃならん。目の詰まった目ごまい信心。目の詰まった信心をして頂かなければ大きなおかげはいただけない。目ごまい信心。いかにもキメの細かい信心というような信心から大きなおかげを受けられないように思われるけれどもそうじゃない。出来るだけキメの細かい、目の詰まった信心させて頂かなければ大きなおかげは受けられない。
 日々信心の新味という、味わい、その新味、その味わいこそが真に有り難いのに通じるのでである。おかげの受けられることが出来るのであるから。今ごろは、「まあ」めったにというよりも、もうほとんど見受けないですけれども、私共の子供の時分には、碾臼というのがあった。手引き碾臼、もちろん、もち米の粉を引いたり、はったいの粉を引いたり、するのがあり、ね。
 いわゆる「あの」ゴンロリゴンロリ、こう時間に任せて突いて、そして目のこまい、きめのこまい粉が出てくる、あれをどうだろうか、いわばゴンロリ、ゴンロリではなくてね、いわゆるゴロリゴロリ引いてごらんなさい。私は今日はそこんところをね有り難い、そこんところを一つ味おうて今日の御理解を頂いてもらいたいとこう思う。ね、年末ともなると、とはなしに気ぜわしうなってくる。
 なにかしらんけれども、何かに追いかけられとるような気がするそう、ゴロリ、ゴロリといこうごたるところなんだけれども、そういう時ほど、一つゴンロリ、ゴンロリといかないけん。その慌しい中にケガがあったり、落し物をしたり、いわゆるそのただ、バタバタしておるだけが能ではない、「ね」「その」新味を味わせて頂き、頂き、一言一言の中からそれを頂いて頂かなければならない。
 目ごまい、キめの細かい信心、そういう信心というのは、大体どういう信心をさして行くのか。今、ここに座ったとたんに、上のほうでネズミがガタガタッと言わせたね、時に、私思うんです、御祈念をするんです。私がこれから、皆さんに聞いてもらおうと思う、言うなら、御理解の邪魔をする。憎いとは思わん。邪魔されなければならない、何かがある、私のほうへ。
 詫びるより以外にないさあ、ネズミが天井をガタガタ言わせてもそれなんである。御祈念中に御祈念中という大事な、その御祈念私の場合は一時間、約15分ですね、だいたいほとんどその時間かかかりますから、その時間にもちろん時計も打ます。けれども、その自分の祈っておるその、「その」祈っておる、御祈念をさせて頂いておるそのハイマ、隙間というか、切れ目、切れ目と言うか、そのところに例えば。
 ほんっとこの時計のじんのなるのでもです、一番私が大事なところにもし、例えばなら時計のベルがなったと致しましょうか、私はそのことに「もう」大変な真剣な思いで取り組むです。宅祭りなんかやらせて頂く、まあそんな時間かかりませんから、私の御祈念中に時計がなるようなことがあったら、私の信心が間違っておる時と思うて間違いないというておるぐらいです。
 というて私時計を見てから何時から何時の間に御祈念しようなんていうようなことはまだかつてしたことがなければ時計を見たこともない。そこに私はキメの細かいという、「ね」信心を皆さん感じるでしょう。自分のことをキメの細かいという(笑い)のはおかしいですけれどもね、いわゆる、その調子で信心を進めていくということなんです。慌しい、ケソケソとした信心ではおかげは受けられません。
 いわえゆる、「その」ゴロリ、ゴロリではいかにもはか行くよですけれども、それでは行けません。肝心要のおかげが逃げて漏ってしまう、いわゆる、水も漏らさんというか、それこそ、水も漏らさんおかげを頂かなければ、不思議なこっちゃあるもう、十年も信心させてもろうて、大変おかげを頂きよるごたるけれども、日々おかげの実感の中に毎日広大なおかげを頂いてと思よるんだけれども残りよらん。
 どっからか漏れよる、いわゆる、目の荒い信心からではないかと私は思うんですね。いわゆる、ゴロリ、ゴロリといきよるからです、ゴンロリ、ゴンロリといかにゃいかん。『ん』の字が足らん一つ。「ね」ゴンロリ、ゴンロリと「あの」石をそう引くように、そこから、いっぺん回っちゃ少し、いっぺん回したら少し、そしてあの穴の中え、もち米ならもち米を、こうやって入れていきますね。
 それで、時間かもいなしですね、はあ(軽い笑い)ゴロゴロやって、あら、もう目の荒いのが出て、しかも、そして、それを今度はまた引き直そうとしたってまた、時間がかかる、かえって。少しづつ、少しづつこうやって、あの粉にしていく、「ね」キメのこまい粉が出てくる、キメの細かーい情感、おかげの妙というものが信心には必要である。そこで、私は「その」思うのですね。
 まずは、あの自分を認めさせようと言う様な、思い方をまず捨てなきゃいけませんね。家内に、主人とにかく人にとにかくその。椛目の信心を、皆が分かったらおかげを頂くだろうと、なるほどおかげを受けておる、だからこういう椛目のような信心を、皆に分からせたい、その気持ちは分かる、ね。分からせたいとして分かるもんじゃない、分からせられるもんじゃない。
 かえってそれを、例えば受ける方の側になると抵抗を感じるぐらいなことじゃないだろうかと思う。ゴロり、ゴロり分からせたいと思う。ゴンロリ、ゴンロリ分からせて、いわえる、ゴンロリ、ゴンロリ分からせるのじゃない、ゴンロリ、ゴンロリ、こちらが分かっていくのじゃ。えらい、キメが細かいここで、どうしてじゃろうかと、皆が、いわゆる注目をするところまでおかげを頂く。
 いわゆる、おかげで示そうと言うことになってくる。分からせようじゃない、そしてそこに思わせてもらう。なぜ分からんのか、なぜ認めてもらえんのか、今認めてもろたら大変なこと、こちらの信心の内容と言うものをいっぺんね、開いて見て見るがいい、こう言う汚いもの、こう言うお粗末なものがあるのを、もしも皆に分かってでももらったら、いわば、椛目の信心の恥を認めてもらうようなことになってくる。
 椛目の信心がいわゆるもっとも、もっともっとね。キメの細かいということ、本当に中を開いて見せても、なるほど合点の行くようなです、信心にこちら自体が、ならせて頂くことに焦点を置く。分からせるのじゃない、こっちが分かると言う信心です。どうして分かりなさらんじゃろうかと、神様が分からせなさらんはずだもん、今でも分かってもらったら大変なこと。
 さあ上辺だけならいざしらん、形の上だけのことならば、なるほど合点を行かせることが出来るかも知れんけれども、その次にはもう分からない、合点の行かないことが起きておる。こちら自体が真から根から分からせてもらい、真から根から改まらせてもろうて、どこへ出してもどこから除かれてもです、立派なものにならせて頂くことに勤めて、そこはもうきせっして皆が分かるだろう、認めて下さる事が出来るだろう。
 嫌な事だなとその嫌な事だなと思う事の中に一つ、キメの細かい信心を頂いていかなきゃいけん。ね。その嫌な事だと思うておるその中に神愛が潜んでおる、ね。嫌な事だとそれを私は疎かにしてはならない、実意丁寧その嫌な事その事を私はよくよく見極めていかなきゃいけない。そこにその嫌な事であると思うておった。もう一つの向こうの方に、キメの細かい信心の妙と言うのが、隠されておる事をいつも体験する。
 そういうですね、そういう信心、年末ともなるとお互いの心の中が何とはなしに騒がしゅうなってくる、あれも片付けとかなければ、これもしもうておかなければならん心忙しゅうなってくる。というて、さどれから手をつけてよいやら分からんようなことすらある。だから、バタバタしてとるだけが能ではない。しっくり、しっくり私はその一つ一つの問題にです、取り組ませてもらう。
 一つ一つの事柄の中に真意を悟らせて貰いそして、分からせて貰うのは神愛である。味わいを味わせて頂きながら一つ一つの問題が解決のおかげになっていかなければないけない。ゴロリゴロリ片付けちゃいかん、ゴンロリ、ゴンロリといかなきゃいけん、そこにキメの細かい信心の味わいの、伴うた所のおかげというものを蓄積していく。このおかげを蓄積していくから間違いのない、いわゆる水も漏らさん言わばおかげ。
 塵も積もれば山となる所の、五年経てば十年たてばそれがはっきり現れて来る。目の荒ぁい信心をさせて頂いておるから、確かにそれでもおかげを受けておるのだけれども、そこから漏れておる。どうした事じゃじゃろうかと思う事はある。あまりに目が荒すぎるからじゃないかとこう思うのです。そこんところを分からせて頂かなければならん。愈々信心信心の味わい、愈々信心の妙境というものはです。
 もうキメの細かぁいところからです、信心からしか生まれてこないように思う。それを味おうていくということが信心である。それはお茶ならする人達が一つの手前を忘れておっても、抜きにしておっても、もうそのお茶全体が崩れるようにです、お茶の手前でもする様な落ち着いた気持ちで、一手前一手前をです大事にしていかなきゃならない。その一手前一手前の中にです。
 なんとも言い知れぬ、お茶の味と言うものがあるように、信心の味というものを分からせもらう。そこに失敗のないというかね、漏らすことのないおかげが頂けて来るのです。それが、3年経ち、5年経ち、10年経っていく内に、いよいよ、どういうことになってくるかと言うと、我とわがが心を拝ませてもらえれるような、、わが心が奉れるような信心の徳というものが身についてくると思う。
 なるほど信心とは神様を拝むことが信心ではなくて、我とわが心が拝まれるようになる稽古をさせて頂くことだというようなことが分かってくる。ところがほんっと自分の心を覗かしてもろうて拝める段じゃない、自分でもう、それこそ吐き気を催すような自分自身というものをです、がいつまでもあったり続いておったんでは、わが心が奉れるどころじゃない、わが心を拝めるどころではない。
 そういう心に頂けるところのおかげを私は本当のおかげというんじゃないかとこういう。ゴロリ、ゴロリやって願うもんじゃけん、神様ゴロリ、ゴロリおかげ下さりよるばってん、ゴロン、ゴロンどこさんか出て行きよる。ゴンロリ、ゴンロリ一つ行かなきゃでけません。いよいよ年末忙しい気ぜわしい、そういう時ほどです落ち着いてじっくり御理解でも頂かせてもらう。
 じっくり例えば天井裏に御祈念中にですよ、ネズミが騒ぐそのネズミ騒ぎの中にでもです、自分を見極める、言わば、信心が私は目のこまい、目の詰まった信心というのではなかろうかとこう思う。キめの細かぁい信心、椛目はどうも私が自身非常にせっかちですから、ゴロリゴロリことする、そこをこう一つ本気でゴンロリ、ゴンロリと丁度碾臼で、キメの細かい粉を引き出していくように、そういうおかげを頂きたい。
 夕べ伊万里、竹内先生をはじめ、あちらの会員の方達が貸切バスで団体参拝があっておる。その中に、本当に、この、なんていうか、竹内先生の信心のキメの細かさと言うものを感じさせて頂いた。椛目に、ご縁を頂かれるようになってから、例えば、そのなんと言うんですかね、キメの細かい信心、行き届いた信心ということになるでしょうね、キメの細かいと言うことは。もう実にその神経の行き届いた先生の信心に昨日触れてからそんなことをしきりそう思う。
 実意丁寧に行き届いてある、ならその実意丁寧に行き届いてあると言うことがです、私どもの日々の問題の上にも、そして実意丁寧に行き届いていくと言うことがです、キメの細かい信心になってくるのじゃないかとこう思うのですね。どうぞ一つきめごもいかなきゃいけません、一つ水も漏らさんようなそのおかげになっていかなきゃいけんのです。
   おかげ頂かなければなりません。